〈追悼公開 2022.12.26〉渡辺京二さんが高校生に遺した言葉

評論家で日本近代史家の渡辺京二さんが、去る12月25日にお亡くなりになりました。
渡辺さんには2021年夏に、『僕、育休いただきたいっす!』(税所篤快著・小社刊)にご寄稿いただきました。
その寄稿全文と、若き新米パパの税所篤快さんが、渡辺さんとの出会いを綴った最終章の抜粋及び、その縁で実現した高校生と渡辺さんの語り合いの場を描いたあとがきの文章を、渡辺さんへの感謝と追悼を捧げつつ、公開させていただきます。
たくさんの方に届きますよう祈りをこめてーー

*<税所篤快『僕、育休いただきたいっす』より> と出典明記のうえ、引用はご自由です。

【寄稿】戸惑いと感謝
渡辺京二(評論家・日本近代史家)

 著者のご希望とのことで、私は一文を書こうとしているのだが、戸惑いが抜けない。校正刷りでこの御本を一読してみたが、なぜ私に一文を求められるのかわからない。それほどこの本で述べられている生活気分と、私のそれとはへだたっている。
 私はただ、今の若い人って、こんなに明るく前向きに生きられるのかなあと、三嘆久しゅうするばかりだ。もちろん、著者の人柄、個性ということはある。今の若い人たちがみんな著者のように明るくポディティヴに生きられるのなら、今の社会は何の問題もなくすばらしいことになる。しかし、現実の社会はそうでもなさそうだ。
 どう考えればよいのか。結局、私が老いぼれて、今の人々のことがわからなくなっていて、そこから来る戸惑いと思えばよいのか。
 私はまず、著者が勤め先の会社で、業績をあげることに充実を覚えている様子に驚く。その仕業は取り引き先との折衝である様で、その取り引き先との人間的親和も筆者のよろこびである様だ。私は生涯、お給料をいただいたのは三年ぐらいしかなく、仕事は編集者であったから、水は合っていたものの、勤めは妻子を養うために仕方なくするもので、本当は会社勤めなんて一日もしたくなかった。
 しかも筆者はまず社会奉仕家として、バングラディシュなど海外での活動に専念し、一転して会社員になっていらっしゃる。それもとてもスムーズな転移で、これはもう人柄がよろしいとしか言えぬのではないか。
 家族仲よくしている情景が大好きで、友人の家族団欒ぶりを見て、自分も結婚して子どもを作りたいと思ったとある。私からすれば驚ろきである。友人に結婚して子を持っているのはいたが、それを見て自分も子どもが欲しいなんて思った覚えはない。
 子どもが可愛いいと思ったのは、吾が子が出来てからである。嫁さんが働いていて、私は無職で家にいたから(結核が完治していなかった)、長女に関しては、産湯をつかわせるやら(その際、首の根っ子をつかんで湯に浮かばせるのだと知った)、オムツの洗濯はやるわ、ミルクは呑ませるわ、ひと通りのことはやった。離乳食の覚えもある。しかし、近くに母がいて、母が全部指導してくれたから、著者が書いているような格別の手間がかかった覚えはない。
 保育園にもすぐはいれた。毎朝連れて行くのだが、グズグズ泣いて靴箱に靴を入れ中へはいってゆく。辛らかった。しかし、夫婦が育休をとって、保育園の選択から始まって大奮闘せねばならぬようなことは何もなかった。私たちが大した苦労もせず、大きくなってくれたと思う。まことにのんびりしたものだった。
 夜泣きにはむろん参った。著者はギャン泣きとおっしゃるが、私時分はただ夜泣きと言ったものである。長女が二歳になった頃がひどかった。その頃は母と同居していて、夜中に泣かれると母が咳払いする。仕方ないから、私がおぶってねんねこを着て、近くの竜神橋という橋の上を、真夜中「旅順開城約成りて敵の将軍ステッセル」と、子守唄代りに軍歌を唄って往き来した。
 そういう共通の体験はあるものの、育児は特別な「課題」ではなく、ごく平凡で当り前のことにすぎなかった。この本でそれが「大事業」というべきものになっていることに、私が驚ろく所以である。
 これには私があまりいい夫、かつ父ではなかったということもあろう。私の妻は二〇〇〇年に死んだが、その数年前だから私が六十代の末のことだろう。長女が「お父さん、いつまでも元気ね」と言ったら、妻が「元気なはずよ。自分の好きなことしかして来なかったんだもの」と答えた由。これに比べれば、著者など夫の鑑と言うべきか。
 私は要するに、自分と著者、あるいは著者が代表する世代との、あまりもの違いに、嘆声を発せざるを得なかった。何という明るさ、健康、向日性であろう。また、何という素直さであろう。私、あるいは私たちは違っていた。もっと世の中と確執するところがあった。要するに、素直であれなかった。教養ひとつとっても根っから違うようだ。堀田善衞を三十代になるまで知らなかったって? 論外のことであって、溜息が出る。
 それより不思議なのは、私の名が突然出て来ることである。なぜ、私の本を読んで下さるのか。ありがたいことではあるが、気が引ける。しかし、こんなにも素直で前向きで、自省心に富んだ若い人が、私と接点を持って下さる。私も少しは素直になって、著者の心に応えたいと思う。(2021.8)

●著者・税所篤快「あとがき」より

この美しい世界

 (二〇二〇年)十月、僕は熊本を訪れた。尊敬する渡辺京二さんが、熊本きっての伝統を持つ壺溪塾という予備校で、浪人生(高卒生)たちに話すのだ。壺溪塾の英語講師・千田浩未さんが中心となって企画したこの会に、僕も発案者の一人として携わっており、九十歳の渡辺さんが創立九十周年の壺溪塾生たちに語る会となって実現した。渡辺さんのお話のテーマはずばり、「本を読もうぜ!」。
「君たちは多くが大学生になるんだろうが、大学に行かなくても、本は読むといいよ! なぜなら本は、君たちが人生でどんなに辛いときでも、落ち込んだときでも、静かにそこにいてくれる。ひとたびページをめくれば、いまいる時間と場所を超越したところに君たちを連れていってくれるのだから」
「いまの時代、生きにくいという若者が少なくない。自殺を選ぶ人もいる。みんな、絶対に死んじゃいけないよ。僕たちはこの美しい世界を味わうために生まれてきたんだから。時代が近代を迎えてから、『人間は社会や世界に役立つものである』という価値観が強くなった。もちろんみんなには立派な職業人になってもらいたいと思う。でもね、人間、べつに社会に役に立つために生まれてきたんじゃないんだよ。自然を見てごらん。鳥や樹木の形や生き方、吹いてくる風。すべてがみんなの生を歓迎してくれてるんだ。それを忘れないでね」
 それが、僕が渡辺さんの話から受け取ったメッセージだった。
 トークが終了すると若者(浪人生)たちからの質問の手があがる、あがる! 渡辺さんは耳が少し遠いのか、学生たちにぐっと接近して、まるで一対一の問答のように対峙する形になる。彼らにしたら、なんだか緊張感があったにちがいない。なにせ、かつては舌鋒の鋭さで熊本県下を震わせた「カミソリきょうじ」の異名があるのだ。しかし、渡辺さんはどこまでも優しかった。問答が終わると、いっぱいの拍手のなか、退場していった。壇上を降りる際に、両手を高く掲げピースサイン。
 僕は、「これだ!」と思った。そう。そのとき、僕のなかで、なりたい九十歳像が明確になったのだ。(2021.8)

●本文最終章「20 不知火の海」より

 日本中を飛び回ることになった僕たち家族の育休は、たくさんの新しい出会いをもたらしてくれた。この連載をさせていただいた「熱風」と担当編集のスタジオジブリの田居さんを媒介に僕は、今まで知らなかった世界に飛びこんだ。

はじめての水俣――2018.5

 水俣病を僕は教科書でしか知らなかった。しかも歴史のなかのもうとっくに終わった出来事として。
 育休に入ってすぐの二〇一八年五月。最新号の「熱風」が届いた。特集は、「石牟礼道子」だった。自分の無知が恥ずかしい限りだが、僕はこのとき石牟礼道子を知らなかった。「いし……なんて読むのだろう」というくらいの認識だったのだ。
 僕と同じように知らない人のために、恐れ多いがご紹介をすると、石牟礼道子は熊本県・天草に生まれ、生後まもなく水俣に移り住んだ詩人、作家だ。一九六九年、『苦海浄土』を上梓。水俣病は、一九五〇年代に海に面する水俣で発生、原因は新日本窒素肥料(現・チッソ)という会社の化学工場からの排水に含まれた水銀だった。『苦海浄土』は水俣病の現状を日本全国に伝えた。作家の池澤夏樹さんは石牟礼さんを「近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった」(朝日新聞DIGITAL 2018/2/10)と述べている。石牟礼さんは、二〇一八年二月十日に享年九〇で亡くなった。

 とにかく僕は知らなかった。水俣病について。知っていることといえば「四大公害病のひとつで、一九六〇年くらいに起きたこと」くらいだ。
 そんな時に、友人の勧めで永野三智著『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』を読んだ。この本では水俣病患者の方たちがいまも症状を抱え、苦しみながらも生きていること(そう、いまもだ)を知り、衝撃を受けた。その相談に乗る相思社という組織があること、相思社の永野三智さんは一九八三年生まれだ。僕とそう変わらない年であることも驚いた。

 そんな折に、ひょんなことから「アエラ」(朝日新聞出版)のジブリ特集(二〇一四年八月十一日号)を読んでいたら、「現代の肖像」という人物ノンフィクションに思想史家の渡辺京二さんの記事が載っていた。渡辺さんは石牟礼さんと生涯の同志であるという。一九六五年、当時渡辺さんが編集責任者を務めていた雑誌「熊本風土記」に石牟礼さんから『苦海浄土』の最初の原稿が持ち込まれ、「海と空のあいだに」という題で連載が始まった。
 多くの読者の皆さんにはロングセラー『逝きし世の面影』で知られている渡辺さんは一九三〇年生まれ。大連で育つも敗戦で熊本に引き揚げる。十七歳のときに結核を患い、療養所で四年半過ごした。この際に直面したある夜のことを書いた「小さきものの死」を発表したのが三十一歳。以来、六十年近く読書と思索と執筆を続けている。水俣病闘争時には、石牟礼さんの依頼により、一九六九年、水俣病患者支援のための組織「水俣病を告発する会」を作り、活動。厚生省(当時)占拠の行動隊長まで務めた一九七〇年には、国の水俣病患者への補償額のあまりの安さに抗議し、渡辺さんが中心になって厚生省の柵を乗り越え、補償処理委員会の会議室を占拠した。
 僕は渡辺さんの苛烈な人生に魅せられた。渡辺さんの著作に挑戦しているとスケール感の大きさや、強靭な思考に自分の生き方を問われる思いがした。「こんなに熱く自由な人生があるなら、俺だって!」と思うようになった。
 渡辺さんの『無名の人生』をまとめた文藝春秋の西泰志さんに手紙を書いて知遇を得「アエラ」の「現代の肖像」を書いたノンフィクションライターの三宅玲子さんを交えて「渡辺京二を語り尽くす会」を東京で結成。渡辺さんに関わった人たちの話を聞けば聞くほど、渡辺さんは面白い!
 ジブリの田居さんが、渡辺さんが二〇一六年に創刊した雑誌「アルテリ」(橙[だいだい]書店)があること、僕の住まいの近所の往来堂書店にも置いてあることを教えてくれた。
 僕は今度は「アルテリ」にはまり、発行元の熊本の独立系書店のオーナー田尻久子さんのエッセイの魅力にとりつかれた。気づいたら、熊本の橙書店を訪ねてコーヒーを飲んでいた。こんな人生と出会うことなんて、育休前には想像もできなかった。育休をきっかけに、僕は熊本で新しい世界を築いていった。

ひとことも発したことのない人――2019.5

 二〇一九年五月、僕は熊本地震からの復興イベント「熊本WISE 2019」に起業のメンターとして招かれた。イベントも後半戦を迎えたころ、ひとりの男性に話しかけられた。
「熊本日日新聞(熊日)の隅川[すみかわ]です。ちょっと話を聞かせてもらいたいのですが」
 僕にとって大きな転機となる隅川俊彦さんとの出会いだった。隅川さんは熊本出身。熊本高校を卒業し、早稲田大学教育学部へ(僕の同窓だ!)。卒業後に熊本日日新聞に就職して記者になった。
「水俣病の担当をしていて、現地にも三年ほど駐在していました」という隅川さんに、僕は反射的に「水俣の話を聞かせてください!」と言っていた。

 その夜、僕はイベントの懇親会を抜け出すと、隅川さんと再合流。下通の魚がうまいという居酒屋へくりだした。二人とも下戸だったのでコーラとウーロン茶で乾杯する。僕は隅川さんに質問を浴びせた。
 隅川さんはひとつひとつ丁寧に、そして熱をこめて話してくれた。
 そのなかでも僕の印象に残ったのは、隅川さんが水俣駐在時に仲良くなったという胎児性水俣病患者さんたちのことだ。これも不勉強を恥じるのだが、僕は胎児性水俣病患者さんたちの存在をはじめて知った。妊娠中に母親が水銀を持った魚を食べたことで、生まれたときから水俣病の症状を持った人たちだ。水俣病闘争の当時、十代二十代だった患者さんたちも今では六十代七十代になっている。
「みなさん年をとりました。六十歳といえば、おじいさん、おばあさんのなり始めです。表情を見ていると、少年少女。あどけない。一日でも一時間でもいい、ひとことも発したことのない人たちの胸の内を考えてみてください」と石牟礼さんが語ったのは二〇一五年のインタビューでのことだ。
 隅川さんによると一緒にいる時間が長くなれば、だいたい意思の疎通はできるようになるとのこと。
「『下下戦記』って本を読んでみて」と、胎児性患者さんたちの若いころについて綴られた本を勧めてくれた。その夜は、それでお開きになるかと思われた。が、
「あ、税所さん。もし興味あったらカリガリのぞいてみる?」
「え、あのカリガリですか!?」

 喫茶「カリガリ」は一九七一年に水俣病闘争支援の拠点として始まった。石牟礼道子さんらが店を拠点に文学季刊誌「暗河[くらごう]」を創刊し、若者たちの「文化とジャーナリズムのるつぼ」と評された伝説的な存在だ。僕は驚いた。カリガリは二〇一四年に閉店していたはずだからだ。
「カリガリって、いま開いてるんですか?」
 と興奮して尋ねると、「場所を変えて再オープンしたんだ」という。
 緊張しながら、ドアを開けお店に入ると、カウンターから顔を出したのは店主の磯あけみさんだ。夜はバーになっている。僕と隅川さんは壁際のテーブルに腰を下ろすと、ウーロン茶をふたつ注文した。
「本で読んだことしかないカリガリ……そして本物の磯さんにウーロン茶を出してもらったぞ!」
 カウンターで杯を重ねているお客さんたちは隅川さんの知り合いだった。聞くと渡辺京二さんに怒られたことなど思い出の振り返り会をしているという。たとえば熊日の松下純一郎さんのこんなエピソードだ。
 二十五年前、石牟礼さんの連載の担当をしていた松下さん。一部の表現が差別用語になりそうだと石牟礼さんに削除の相談をすると、石牟礼さんは削除に応じたそうだ。しかし後日、飲み会の席で渡辺さんに怒鳴られた。
「作家の思いを受けて会社と闘うのが編集者の仕事だろう!!!」
 そして、そこに居合わせた医者や会社員に向かって、
「お前ら、辞表を胸に仕事をしてるのか!!!」
 ウオーーー! と沸騰した。
「おいおい。ドラマかよ」。聞くだけで鳥肌が立つ。
 その日、水道町にあるホテルのベッドの上で僕はなかなか寝付けなかった。

美しい海――2020.7

 朝、隅川さんと堀江さんがホテルに迎えにきてくれた。堀江さんは、隅川さんの熊日の後輩で、僕と同い年の三十歳。最近水俣病の担当になった。
 この日、僕たちは水俣に向かった。僕は初めて美しい不知火[しらぬい]の海(八代海の別称で、古来、無数の火が沖合に見える現象があるという)を見た。
 海岸線にあるエコパーク水俣は、現在は護岸工事がされたスポーツ公園だ。海は七月の太陽を撥ね返しまぶしく輝いていた。この美しい公園の地中に、水俣病を引き起こした水銀を含むヘドロが封じ込まれているなんて、どうやったら想像できるだろう(埋め立ての総工費は四百八十億円以上かかった)。
 水俣病の慰霊碑で鐘を鳴らす。そのあと、チッソが水銀を流したという、百間排水口に行った。
 チッソ(当時は新日本窒素肥料)は一九三二年から、メチル水銀を含んだ排水を無処理で海に流し続けた。水銀量はなんと四百五十トン! どのくらいの量かもはや想像がつかない。
 ここが水俣病の「爆心地」とされる。いまはなんのことはない排水口だ。一九五八年には水銀汚染が拡大し、河口そばで魚が大量死、ネコが狂ったように海に飛び込んで死んだ。村の人は「ネコが自殺した」と言った。当然人間にも影響が及び、患者が発生した。
 百間排水口周辺は緑道が整備され、地蔵がまつられている。「水俣病巡礼八十八ケ所一番札所」とあった。

 真夏の太陽が水俣を照りつけている。
 あまりの暑さに僕たちは、喜楽食堂に入って、一九五〇年から続く「水俣のソウルフード」チャンポンを冷水と一緒にかきこんだ。昼休憩をはさんで、隅川さんの案内で僕たちは、かつてチッソの排水プールがあった、堤防に着いた。このコンクリートの堤防の下には、今なお大量の水銀ヘドロが埋まっている。
 熊本地震はこの埋立地も大きく揺らした。関係者の中には最悪の事態として護岸が崩壊するリスクを想定した人もいたそうだ。熊本日日新聞は、関係者が堤防を目視で点検に走り、大規模な損壊がなかったことに胸をなでおろしたことを報じた。
「もし水俣市沖の断層に近いところで大地震が起きたら……」と不安を覚える現地の人もいると隅川さん。万が一、堤防が崩壊でもしたら、水俣湾はもう一度汚染されることになるのだろうか。これ以上の悪夢は想像できない。

 車は一路、モダンな建築の水俣市立水俣病資料館へ。受付のひとは隅川さんの顔見知りのようで「こんにちは!」と挨拶を交わす。

 資料館を後にして僕たちは、小高い丘を登る。僕がかねて訪問を希望していた相思社だ。海が見渡せる丘に、いくつかの家屋が並んでいる。かなり年季の入った建物だ。あたり一面は畑になっていて、かつては水俣病患者さんの自立支援のためのみかん栽培をしていた。
 不知火の海が美しく見渡せる。すごくいい風が吹いている。
 ここで僕ははじめて、水俣病闘争のシンボルのひとつ「怨」の旗を見ることになった。墓地に向かう地元民の葬列からモチーフを得た石牟礼さんのアイデアだ。
 真っ黒の下地に、白字で「怨」。なんて迫力だ。
 怨の旗とともに、「死民」というゼッケンも支援者らは装着した。これらを掲げられて行進される側の気持ちを想像してみる。さぞ胸がざわざわしただろう。鬼気迫るものの残滓があった。
「風にやさしく吹き流れるやるせない黒い布に、わたしは化身する」(石牟礼道子『神々の村』)。
 怖い。

 最後の訪問先は、水俣市最南端の漁村・茂道[もどう]こちらも隅川さんの友人の一人で胎児性患者の滝下昌文さんのご自宅だ。コンビニで買ったコーラとじゃがりこをお土産に訪ねる。隅川さんと滝下さんがおしゃべりをしている様子を見ると、親戚の叔父さんの家に遊びにきた甥とでもいうのだろうか、とても記者と胎児性患者さんという関係には見えない。
 滝下さんの家を出ると、もう陽が傾いている。僕はこの静かな茂道という場所を不思議に感じた。この山あいの美しい地が、「可視化された極限的な凄惨」と評された病の震源地のひとつになったのだ。
「本当に綺麗な海ですね〜」
 夕暮れに輝く海を横目に僕はつぶやいた

 隅川さんは僕を空港まで送ると、空港三階の「いきなり!ステーキ」で、肉をご馳走してくれた。男三人で肉をわしわしと噛み、食らう。生きているという実感が湧いてくる。

 気がつくと、渡辺京二ウィルスは僕の友人たちにも感染していった。渡辺京二さんの『無名の人生』が回し読みされ、「アルテリ」の読者が増えていった。僕のまわりでも「渡辺京二を語り尽くす会」が開催されるようになった。人がつながり、新しい刺激が不思議なネットワークを張り巡らせた。気づけば、そのネットワークの友人たちが最後には渡辺さん本人にお会いできる機会を作ってくれた。僕はおっかなびっくりながらも、渡辺さんを訪問することができた。
 このような出来事は、育休中でなければ決して生まれなかったろう。仕事をしている間は誰だって目の前のことでいっぱいいっぱいだ。「熱風」の石牟礼道子特集だって見過ごしていたかもしれない。しかし、僕には育休のおかげでいささかの時間と心の余裕があった。だから三十歳を前にして新しい世界を垣間見させてもらうことができた。この刺激は僕の友人たちにも伝播し、みんなで新しい好奇心を手にすることができた。これは育休中の最大の収穫のひとつだろう。

税所篤快(さいしょ・あつよし)
1989年生まれ。東京都足立区出身。早稲田大学教育学部卒。英ロンドン大学教育研究所(IOE)準修士。19歳で国際教育支援NPO e-Educationを創業し、バングラディシュにおいて最貧村から国内最高峰ダッカ大学に10年連続で合格者を輩出する。同モデルは米国・世界銀行のイノベーション・コンペティションで最優秀賞を受賞し、「五大陸のドラゴン桜」と銘打って14ヵ国で活動。未承認国家ソマリランドでは過激派青年の暗殺予告を受けながらも、教育と起業家を育成する「日本ソマリランド大学院」を米倉誠一郎氏と創設。帰国後、リクルートマーケティングパートナーズ(現リクルート)に勤務しスタディサプリに参画。2021年夏から長野県小布施町に移住し、新たな事業に取り組んでいる。著書に『前へ!前へ!前へ!』(木楽舎)、『「最高の授業」を世界の果てまで届けよう』(飛鳥新社)、『突破力と無力』(日経BP)、『未来の学校のつくりかた』(教育開発研究所)ほか。